2008年7月9日水曜日

神業ってなんですか?

当たり前のことが難しい。これは別に挨拶とか、よく言うホウレンソウなどのことではまったくない。例えば乗車口の前にドアをもってくる電車の運転手の技術だったり、毎時教室にやってきて教鞭をとる先生などのスキルのことである。ごく当たり前のことばかりではあるけれど、やってみるとべらぼーに難しかったりする。慣れ、という問題も大きいのだけれど、それってつまり熟練、ということでは、と思うとありがたみも少し違ってくる。

例えば手ものとの雑誌をちょいと開いてみる。ぺたっと開いて水平に持ち上げて眼の高さまで持ってきてみよう。そこでストップ。二段組以上の体裁で、文字がまっすぐ流れていれば、その雑誌は合格だ。

複数の段の文字を、ぴたりとそろえるのは特に雑誌ではほんとは難しい。同じ誌面に図表を入れたり、写真を動かしたり、見出しの大きさもころころ指示がかわる。そのたびに版面をいじくり回していると、いつのまにか段と段の文字列がぴたりとあわなくなってくる。ずらしたとことは、そのずれを計算して行取りを調節しないといけない。これはDTPオペレータの仕事になるが、自分でやれと言われればまずできないだろう。一ページにおさめなくていいならただ文字を流すだけだのものだが、字数も毎回てんでバラバラなものを見開きにおさめて、なおかつきっちりくむのはこれはもう神業である。

でも、だれもわからない。自然な誌面で読みやすい。だから気にも留めない。
どんなにすごい神業でも、わからない。神は細部に宿るなんて、悪い冗談みたいだとほんとに思う。

なにげなーく、ぼーっと歩いている道ばたに神々はおそらく無数に転がっているにちがいないのだ。
ほんとに、それはもう八百万くらいには。自然に、何気なく、生活を支えてくれるなんて、ほんとにこの住み良い日本は八百万の神様のくになんだなと、思ったりもするのだ。

2008年7月8日火曜日

編集者ってなんですか

ところを得る、というのは意外と大事なことだ。例えば、編集作業のうち、企画を立てる、取材する、記事を書く、それらの制作進行をするというのは、全部別の仕事と言っていい。企画を立てるときに、取材先でヒントをもらうことくらいはあるかもしれないが、それでいい記事がかけるとは限らない。抜群に使える写真をとれるからといって、それが即企画立案に結びつくものではまったくない。

本来、どれも編集者の仕事だ。もちろん、職能に明確な定義はないけれど、僕の知っている編集者はこれを全部一人でやれる人もいる。やれる、というかできる、というレベル。だからといって「やる」わけではないところがみそ。どの分野にもプロがいる。カメラマンがいる。ライターがいる。デザイナーがいる。その分野において抜きんでたからこそのプロだ。かなうはずがない。

しかし、それでもなお、編集者はそのすべてができなくてはならない。平均点くらいはとることが、この職能のプロ意識ではないかとすら思う。やろうと思えばできる、というレベルがもちろんベストだが、やってみてその分野の勘所や、難易度がなんとなくわかっているだけでもいい。ある程度の理解がないと、どうだめなのかわからないからだ。それではオーダーもリテイクもできない。クオリティがばらけて、いい本はできない。

だから、編集者はいきおい全部をやろうとする。少なくとも小さな編集部だから必然的にそうなるとも言える。それで冒頭の言葉に戻る。苦手な分野もあって、得意なこともある。できることもあれば、からっきしうまくできないこともある。記事を書くのは抜群でも、取材ができない。取材で現場に入っていくのは舌を巻くほどうまいのに、記事に余分なことを書きすぎる。いろいろある。人には本当に得手不得手がたくさんある。

できない。そういうことはどんな分野にでも、だれにでもある。だが、それはある程度の積み重ねや性格的な問題もあってそうなっている。それはその人の能力だし、本人が自覚すればある程度の矯正はできるかもしれないが、効率がいいとはいえない。

自分の能力をしること、それにあった働き方をすること。本来はそれが一番大切なはずだ。ライターはだから書くことに特化できる人種なわけで、デザイナーは書くことができなくても版面をつくることにかけては人後に落ちない。そういう専門化によって全体のクオリティがあがる。それはとてもすばらしいことだ。

自分のあるべきところを得る。その合作。それが一冊の本になればそれはすばらしいことだと思える。
そして、それをコーディネートできるのが編集者といったら、少し言い過ぎだろうか。
多少ロマンはあると思われる。

2008年7月4日金曜日

同業他社さん

大学の友人でこれまた編集者の男と飲みました。同業他社、というのは思ったよりも違う仕事のしかたをしているものです。執筆者からあがってくる原稿をリテイクするかどうかとか、思ったよりも会社によって対応が違うようです。専門分野が違うので一概に比較はできませんが、自分と同じ分野で誰よりも詳しくなければプロとして意味がない、という話が印象的でした

能力がないのにことにあたるのは無責任だ、というニュアンスのことを書いていたのはたしかドラッカーでしたか。

2008年7月2日水曜日

個人的なはなし

今日は、とある団体の代表の方にインタビュー。行動力もあり、人をひっぱる力もある反面。個人の体験をもとに話をするために、ひどく一般性に欠ける話でした。理論的におかしい、話がつながらない。個人的な体験を一般化して話してしまう例というのは意外と日常的によくある話ですが、最近では本屋の書棚ですらそういう本が山積みです。

個人的な体験をベースにした本というのは、瞬発力があっても持久力が足りない。訴求力はあるけれども、持続性がない。言葉は響くけれど、残らない。いつまでも売れ続ける名著は、とてもゆっくりしゃべる。落ち着いて、言葉を選ぶ。本棚にはそうした本を残したいと思って、今日は本を少し捨てます。

2008年7月1日火曜日

理由なく始まったものは

「理由なく終わる。その逆もまたしかり」村上春樹の短編集『回転木馬のデットヒート』にたしかこんな文言がありました。このブログもそんな感じで始まったり、終わったり。年度当初の異動で、仕事上活字をいじる機会が多くなったので、帰宅してまで文字で遊ぶ必要がなくなったと自分では考えていたのですが、仕事で扱う言葉というのは、やはりある目的にそって限定されているものであって、いわゆるパーソナルな書き物とはやはり全然違うのだな、というのが最近の実感です。ブログならこんな悪文でも堂々とかけるのもメリットです。製品になってしまうとどうしても、全部はかけない、寄り道もできないし、目的もしっかりきまっている。でも、それは言葉の機能のほんの一部でしかないんですね。

作品じゃないんだから、頭で変にまとめる必要はない、全部書けばいい。
そういうスタンスで力を抜いて取り組んだら、何か見えてくるものがあるかもしれない。
そいういう訳で、またしばらく書いてみようと思う次第です。