2007年7月31日火曜日

練習


ジャンクパーツを使って、工作の練習。1.7mmのドリルで穴をあけて
1.8mmのメタルビーズを仕込む。勿論ビーズはメッキなので力を入れ
るとばりばり割れる。ビーズの方が僅かに厚いからだ。しかし、正寸
どおりの穴をあけるとすかすかでビーズが抜けてしまう。これは厳密
にはドリルが左右にぶれて穴が1.7mmよりも大きいためにだが、これ
を是正するよりは、コンマ1大きなビーズを用意した方が成功率が上
がる。他にも平均的な厚みのパーツでは何回ピンバイスを回天させた
場合に穴が貫通するのかを実測。およそ20回転。これはねじのしめ
つけの力などにもよると思うが、まず平均的なところだろう。
メタルビーズの埋め込みはキットの情報量を増やして、プラ面の説得
力を上げる手法として、ネットモデラの間では人気が高い。

最近、工作をする上で、気にかけていることは

明確に上達を志向すること
技術をコンスタントに身につけること

この二つ。
ほとんど方向性は同じだが、必ず新しいキットでは新しい課題に対し
新しい技術をトレースしてみる。そして、成功したものには、再現
可能なテクニックとして出来れば数値化すること。そうすることで、
コンスタントに上達することができるし、一度出来るようになったこ
とは「いつでもできること」になる。そうして次のステップに行けば
よい。

だから、完成品にはあまり興味が無い。よろこんでもらえる人がいれ
ば友人なら差し上げるし、過程を通じてなにか一つでも課題をこなせ
たら自分としては満足だ。

できなかったことが、出来るようになる。どの分野でも、それは新鮮
だが、工作は、自分ひとりしかいない点が特異だ。より多くの人とつ
ながっている仕事では、自分の力量を見誤ることが往々にしてある。
自分一人で出来ること、出来ないこと。それを明確に意識して、一つ
一つこなしていくことが、趣味のなかでも大きな要素をしめる、最近
そんなことを思った。

2007年7月30日月曜日

ネクタイ

ネクタイをとってみた。周囲がクールビズを導入したのは随分前のこ
とだが、自分はネクタイを外さなかった。これは単に礼儀作法の問題
だけではなく、ノーネクタイに、ジャケットの姿がみっともなかった
らだ。数年前は、ネクタイをとるなんてもっての他だった職場で皆が
ノーネクタイでウロウロしている。横断歩道かここは、と思う。皆で
わたれば怖くない。所詮は礼儀作法などはその程度のものだというこ
とだろう。「ここでは、このように振る舞うことがルールですよ」と
いうコードが大切であって、それを一律で守れることが、すなわち礼
儀正しいとされる様式だった。つまり、皆がそれを礼儀作法と思わず
もっともらしい理由(環境問題?)ともっともらしい言葉(クールビ
ズ)を用意すれば、たちまちなくなってしまう程度のものだ。
ネクタイを外すより簡単かもしれない。

こういう様式をかたくなに守っていた人が、何のこだわりもなく、ネ
クタイを外す。この人の価値観はその程度のものなのだろうと思う。
きっと皆がやればどんなことでもするだろう。そこまでは言い過ぎか。

ネクタイは、様式美であるとともに、一つの礼儀の形だと思っていた。
だが、職場には礼儀を示すべき人はいないようだ。折よく人の薦めも
あり、ネクタイをとることにしたという訳。なるほど、しめるよりも
よほど簡単だ。

2007年7月29日日曜日

選挙


吉祥寺の井の頭公園を散歩した。直前に激しい夕立があり、駅ビルの
地下にあるカフェで雨宿り。写真はその時のデザインカプチーノ。
勿論、飲むのだが、だんだんとしっぽがなくなり耳が一つになり、最
後は清涼飲料水のキャラクタ「クー」みないになった。普通のカプチ
ーノより150円ほど高い。デザイン料か。いや猫はそもそも出来物
だから、技術料かな。どっちにしても安い。

井の頭公園を一周して、最近出来たばかりのヨドバシカメラへ。家電
に用はなく、一路おもちゃ売り場へ。先日届いたエアブラシをコンプ
レッサに接続しようとしたところ、別入りのジョイントがないと駄目
なことがわかった。エアブラシはクレオスで、コンプレッサがWAVE。
難儀なことだ。ジョイントをポイントで無事購入。新宿で食事をして
帰宅したら、高尾以降の大月方面の電車が大雨の影響で、ストップし
自民党が大負けしていた。どちらもいまのところ関係ない。




結局選挙にはいかなかった。どの政党が何をしているかいまいち知ら
ないし、マスコミ主導の選挙を見る限り、自民党はたぶん負ける。
安倍政権のことなど何もしらないが、新聞を読む限り致命的なミスは
たぶんない。今までやっていて悪いことが、分かった、ということは
あるにせよ、それはきっと誰でも同じようにやってきたことだ。何を
やったかで評価するには、まだ時間があさい。何にしても選挙にいか
なかった人間の言うことではない。

ただし、選挙に行こう、というアナウンスに比べて、いかにして選ぶ
かというガイダンスが圧倒的に不足しているように感じる。誰が何を
いっているのか、その整合性は、妥当性はどうしたら確かめられるの
か。そもそも街頭演説や選挙カーなどでアジる、一言コメントを残す
だの主張で、何を選べてというのか。凝縮して分かりやすく、それは
わかるとしても、それはその後に主張の全部にアクセスできることを
前提としてではなかろうか。あれだけの断片的な情報で選べと言うの
はそもそも選挙民を馬鹿にしているし、選ぶ方の人間も、それだけの
能力を磨く練習はおそらくしていないと感じる。

花火スポンサ


空いた時間をみつけて、作業台を整理する。どうしても中央のスペース
が塗装ブースにとられてしまい、それ以外の作業時のとりまわしに苦労
が多かったそこで一思いに塗装ブースをしまい込んで、作業台としてリ
ニューアル。塗装は風のない日に窓を開けて、直接外に。おとなりさん
から遠くは慣れた田舎者の特権である。その結果ひろい作業スペースが
出来た。何もない空間がこれくらいあれば、いろいろなことができる。
これが余裕というものもか。遊びの分しか賢くなれない。

頭空っぽの方が夢詰め込める、と悟空も言っているではないか。

さて、午後から地元の花火大会へ。市の観光協会が主催するお祭りに
してはがんばっており、3500発の花火を2時間かけて打ち上げる。
ただし、そこは観光協会。スポンサー企業の名前を花火があがるごとに
読み上げる日本型システムを採用しており、圧倒的数の地元企業の名が
次々とウグイス嬢によってアナウンスされる。最寄り駅の側のラーメン
屋の名前まであり、観光協会のローラー型スポンサー営業のたくましさ
が見て取れる。

そこで、名前が読み上げれられることで、消費行動になんらかの変化が
あると本気で考えている人間がまだいるという証拠か。そんな人間が、
いまどきいるだろうか。それとも古き良き日本の伝統文化を示したか
っただけか。それならば好意的にみることもできる。何しろもう一つも
スポンサの企業を覚えていないのだから。

文字通り協賛金は夏の夜空に花と散ったわけである。

2007年7月27日金曜日

木工用ボンド

昨日のよるの工作を少し。木工用ボンドで木組みのマガジンホルダーを
修理。父親が学校で作ってきたものを割りと気に入って部屋で使ってい
たのだが、先日けつまづいて壊してしまった。ボンドが無いとどうしよ
うもないので、しばらくほおってほおっておいたのだが、父が見つけて
しまったのだ。何も言わなかった。

何も言われない方が辛いものである。心中を慮り、落涙しそうになった。
帰りに百円ショップによって(その辺がせこい)木工用ボンドを買って
すぐになおした。ものの5分。林間学校から帰宅するまでに直しておく
と約束した。
どうやら嘘はつかなくて済んだらしい。
最近、もっとも実用的だった工作。
だが、必要に駆られてやったので、これは趣味とは言えない。なんとい
っても実益もあり、動機も不純。今日は素直にプラスチックを削ろう。

2007年7月26日木曜日

100均


100円ショップでたくさん買い物をする。とっていも全部で10点
ほど。買うものは全て前もって書き出しておいたので、買ったものは
多くてもいた時間は10分くらい。全部でたったの1050円なり。
使ったお金も使った時間も最小限。メモは偉大なり。

スポイトを2つに、木工用ボンド、ペン立てを一つ。デスクマットと
ビニール手袋の替えを買って、フローリングの掃除の為に、ぞうきん
とクリーナを購入した。

最近の100円ショップには何でもあるが、もちろんここで何でも
買う訳ではない。取りあえず○○であれば何でも良い、というレベル
のものしか買わない。スポイトだったら何でもいい、ビニール手袋
ならどんなものでもかまわない。

高ければ高い方がいいものがあるにが、世の中そうもいっていられ
ない。優先順位の高いところにお金が集まるのが道理というもの。
今日、6000円ほどするノギスが届いた。ミリ単位でデジタル表示
する優れもの。100円ショップのノギスでは発揮できない性能があ
る。それに喜んでお金を払う。ノギスを「優秀な人材」に置き換えて
みよう。100均はバイトか。
なるほど、どちらもなくならない道理である。

100均で買ったものにまぎれて、作りかけのジムの頭がある。
美味しいおかずは最後に食べるが、気になるパーツは最初に作る
質だ。

2007年7月25日水曜日

読書スタイル

友人から本が届く。町田康の「くっすん大黒」まだ読んでいない。
さて、どうやって読もうか。本にはいろいろな読み方がある。

大きく分けて、筋をざっくり追う場合と、じっくり映像展開する場合
だ。これは、フィクションでもノンフィクションでも変わらない。そ
の人個人の好みに左右されるものだ。

自分が読む場合はどうしても会話の表現に感心があるし、せっかちな
ので、地の文などはあまり丹念に追わない。

ジュールベルヌの「海底2万マイル」で、ネモ船長の美術品のコレク
ションが絢爛に2頁におよんで丹念に描写されるのを読んで多いなる
壁を感じた。ショック。しかし、すぐにその壁を登らなくてもよい、
つまり避けて通ることができるということを学び、黄泉とバス、(す
ごい変換である読書の神がお怒りたもうたか)

そんなこんなで今まで本を読んできた。しゃべるより読む方が早い。
だが、それではもったいない。入ってくる情報がテキストばかりであ
る。せっかく読むならあまたのなかでビジュアルを展開してじっくり
味わった方がよいのではないか。

このテキストで映像をつくるとどうなるか、細かいところまで想像す
る。そうすることで情報量は何倍にもある。もともとテキストは映像
に比べて無駄が無い。コップはコップだし、美人は美人である。もと
もと現象を抽象化した文字で構成されるテキストは、だからこそ、遍
在するとも言える。情報の含有量のポテンシャルは何より高い。

テキストを読み込んで、映像を展開し、情報量を増やす。それはむしろ
アウトプットに近い。そうするとこで、それは自分だけの本になり、読
書が体験と呼ぶに相応しいものになる。

これは逆もまた真で、映像展開しやすい本が、臨場感があって、面白い
本とも言える。だから、その意味ではどちらが正しいといえる質のもの
ではないのかもしれない。

しかし、自分の心構えで何とかなるのは、読む時の心構え。作家がどう
書いたかはどうしようもない。せめて、ゆっくりとしゃべるよりも遅く、
文字を一つ一つ絵の具を紙に載せるように丁寧に配置して絵を描くよう
に読む。最近読書がマンネリ化してきたような気がする。
新刊は日に数百点の割合で出ている。
本がマンネリしたわけでは、たぶんない。

自分の読み方を変えるべきときにきているのだと思う。

2007年7月24日火曜日

ユザワヤ

今日は、仕事でストレスが溜まったので帰宅途中で寄り道。吉祥寺の
ユザワヤに初めて入った。吉祥寺は数年前は毎週末に通っていたし、
今の職場も既に5年目なのにいままで入ったことが無かった。必要が
なかった、とも言えるし、だから今日はたまたま必要があっただけ、
とも言える。



ミラーテープを二本と発泡スチロールのブロックを2つ。フェルトの
あまり切れを少し買った。これで何をするのか、写真をみて分かった
らすごい。僕は全部わかっている。そうかこれでは自画自賛か!とい
うことには勿論ならない。

こういうのを読者限定サービス、とは言わないだろうか。
うん、たぶん言わないな。

ユザワヤに戻る。最高に楽しかった。とにかく材料ならもう何でも
あるんではないかというくらい豊富な品揃えで、これは何につかう
んだろうと首を傾げるものばかり。これはあれに使えるな、ああ、
このブロックがあのときあれば、と一人で2時間くらいは楽しめる。

でも、もっとはやく行けば良かった、とは思わない。必要だから探
して必要だから見つかったのだ。全てにのものごとにはそういうタ
イミングが少なからずあるのではないか、と想像する。そのタイミ
ングを逃す、ということはありうる。

今日行ってよかった。
正確に言えばそうなる。

仕事の話。兎に角無駄と思えることが多い。無駄はなくせば良いと
いう問題ではない。対立する主張のいずれもが正しい場合、双方を
入れた回答は、かなりの割合で遊びの多い、ファジイなものになる。
玉虫色というほどではないが、七色の光線がまじり合って無色透明
になるようなもの。無難で、それを作る時間がつまり無駄なのだ。

勿論ベストな状態で仕事ができる訳ではない。ベストなコンディシ
ョンでなければ力を発揮できないのはアマの考え。そう思うことに
する。せめて趣味の分野ではベストなコンディションをと思う。だ
から、今日も高い高いノギスを買ってしまうのでした


写真は最近一目惚れして購入したお地蔵さん。いつもこれに許しを
乞うている。夜は印鑑ケースのなかにしまって寝かせている。

2007年7月23日月曜日

教養と神話

朝、たまに中央ライナーを利用して出勤している。乗車券の他に特急
券が必要だし、立川から新宿まで停車しないので、勤務地を通りすぎ
てしまうという欠点はあるものの、足をのばして、座席を倒し、本を
読める環境は得難いものがある。

500円でこのサービスなら全然高くない、むしろ安いと言える。満
員電車で目の前の座席に500円払ったら座らせてくれるなら、払う
人は案外多いはず。

そんなプチブルシートで大塚英志の「教養としての<まんが・アニメ
>」を読む。昔から「ガンダムはいずれ教養になる」と豪語してきた。
だから興味はある。だから読んだのだが。一読した感想としては、皆
そこまで考えてマンガ読むかい?という素朴な疑問である。もともと
教養は単なる知識ではなく、ある種の文化的理想を体得し、それによ
って個人が身につける総合力という意味合いが強い。つまりなんらか
の思想的なバックグラウンドをもとに集積された知識の総合力であっ
て単なるオタク的ナレッジではない。つまり、時代を背景としたある
一定の広がりをもった図版に位置づけられた知識なり、教義を体系的
に身につける時代の学問と呼ぶべきものだ。そう考えると「ガンダム
が教養」というのはちょっと違うかもしれない。この本を読んでその
想いが強まった。



この本は、良く知られた古典的アニメやマンガ作品を、戦後史のなか
に配置し、その文化的意味を定義していく。つまりまっとうな教養へ
の解釈の上に成り立った極めてまじめな本なのだ。

その意味で、こちらの本に非は無い。一読して感じた違和感は、自分
の好きなものが感覚ではなくロジックでとらえられることへの極めて
主観的な拒否感だと思われる。普遍的なものへのストレートな嫌悪と
言っても良い。知識が敷衍する分にはかまわない、しかし、それが、
作品外の一般的でもっともらしい言葉に抽象化されて語られることに
違和感が拭えないのだ。

ガンダム、ひいてはサブカルが教養になって欲しいわけではないのだ
な、自分は、とこの本を読んで理解できる。同世代の共通項としての
サブカル。まあいつの時代もあったと言われればそれまでだ。
ただ、同世代の共通言語として、革マルの代わりにティターンズとか
民青の代わりにエウーゴといったキイワードとして、そしてその合い
言葉で想起される大きな物語を同世代の共通項としてとらえたいと思
うだけなのだ。それもイデオロギーとはちょっと違うもので。言葉で
現実に力を行使しようなんて、もう我々の世代はおもっちゃいない。



騙り、語り継ぐ「ガンダムは、我々の時代の神話だ」
とかね。

2007年7月22日日曜日

愛しのプリンス


さて、本日二回目の投稿。このブログは書くためのリズムを適切に調節
するためのペースメイカとして、某かの形で毎日更新することに決めて
いる。だからと言ってネタをストックしたりするのは意味が無いし、か
くことがあらかじめ決まっていればある程度誰でも書ける。

その日、そのときにキーボードに向かってある程度の分量を出力するこ
とができるかどうかが重要であって、日記としての機能が今の自分には
さほど重要ではない。

さっきと言っていることが違うじゃないかと言う指摘もあるかもしれな
いが、これを日記として評価するのは、もっと先の自分だ。いまリアル
タイムで書いている自分には、日記としての価値はない。

そうした使い分けになっている。

さて、写真は町田の喫茶店「プリンス」前々から気になっていたところ
を今日思い切って入ってみたのだが、異空間だった。統一したテーマと
なるとかなり抽象化が難しいラインナップの調度品にまず圧倒される。
中世ヨーロッパの甲冑、ヘラジカの剥製、ステンドグラス、ジャングル
みたいな植物に湯浴みする裸婦、七人の小人が各テーブル一体などなど。
それらが渾然一体となった完璧な異空間ぶりにはコーヒー一杯ではもの
足りないほどの強烈な非日常感が漂っていた。

おしゃれでスマートなカフェには、この空気、ちょっと出せない。
逆にここまでやらなければ、リピーターは来ないだろう。作家の三浦し
をんさんも行きつけと聞くこの喫茶店は、確かにどの時代、空間ともき
りはなされた都会の四次元ポケッツであった。

突き詰めれば、商売になるものだな、とコーヒー一杯で貴重なことを学
ばせていただいた。

記憶を記録、するのは私



ヤフオクで落札したジービーレーサが届く。思ったよりも更に
ミニサイズ。写真のとおり手のひらサイズだ。スケールも若干
デフォルメされていることを考えれば、ちょうどいいのではな
いだろうか。

ちなみに、写真は昨日買ったデジカメでとった。ニコンのクー
ルピクス。木村拓哉が宣伝をしているのを観て母親が購入し、
それを借りた息子が気に入ってもう一台買うと言う日本式マー
ケティングに極めて合致した商品である。

小ささは申し分なし。カードサイズで厚みは少し気になるが、
これ以上薄いとホールドしたときに安定しない。使い回して
思ったのは起動時のレスポンスが早いこと。保存と、再生時
の補正に多少時間がかかるが(といっても1秒くらい)使っ
ていてストレスは感じない。接写などの性能はあまり高くな
いが、ポケットに入れて持ち歩くセルフユーズには全く問題
ない。

画素数は700万画素。フルスペックで撮ることはほとんど
ないだろうから、実働300万くらいだろうか。何にしても
記憶よりは、抜群に鮮明である。

記憶に意味があるのは価値や印象などのメンタルな部分で、
そこを残すには書くしか無い。別にしゃべっても良いが、そ
れを録音するのも馬鹿みたいだ。撮れるものは写真で、残せ
るものは紙で、必要があれば風に乗せて(コウガミショウジ
みたいだ)あとに残るのは、ではなんだろう。

残ったものが私、というのは綺麗過ぎるだろうか。

2007年7月21日土曜日

共有

朝起きて、兎に角部屋の掃除をする。(と言ってもまだ起きたばかり
なのでほとんどしていない)昨日は会社で久しぶりにお酒のお供をし
たのだが、やはり行くものではない。行かずにすませられるなら、二
度といかない方がいい。時間がほんとうにもったいない。

3時間以上拘束されて、酒を飲まされるなんてほとんど拷問だ。好意
が伝わってくるぶん、恨むことも出来ず精神衛生上非常によろしくない。

是だけ心配していただいて、その心遣いと期待に応えない自分てなん
なんだ、という循環だ。綺麗なものを入れても、汚水しかでてこない
みたいで気分がわるい。

早急に気分転換が必要。新しいデジカメでも買おうか。

今持っているデジカメは、大学3年生くらいに購入したもので、当時
としては300万画素のスペックはハイエンドの部類だった。カバンに
しのばせる大きさはかなり便利で、フィンランドにも連れていき、
マイナス20度のなかでがんばってオーロラの写真をとったのもこの子。




しかし、最近では画素数はともかく、プレビュー画面の小ささと、
重さが気になるようになった。ポケットサイズといっても内ポケに入る
ほど小さくはないし、被写体をみつけてから、「さあ、写真をとるぞ」と
カバンをあさって、スタンバイする時間がなにより惜しい。
気軽にとれるカードサイズのデジカメが欲しい。

何かをみて、いいなと思う。それを記録する。その瞬間は本来シー
ムレスなものだ。みたもの全てを記憶すればいい、それも一面の真理。
だが、それでは視点を共有することはできない。

記憶の共有が写真にあって、脳にはない。

こんなことを書くのも、一種の共有願望か。書くことで残る。他人は
こんなもの読まない可能性のほうが高い。希望くらいはあるかも知れ
ないが、期待はしない。

でも、将来自分が読むだろう。そして、その時の自分は、もう今の自分
とは別の人間だ。その時、ささやかに共有するものがあれば、この日記
の意味はあると言える。


さて、今日は外出の予定。恵比寿でお好み焼きをたべる。
その前に新宿でデジカメをみようかな。




※写真は、今のデジカメで撮影した最高のショット。フィンランドで発
車を待つサンタクロースエキスプレス。こんな夕焼けは「いま」まで観
たことが無い。

2007年7月20日金曜日

MIXIは置いといて

個人が特定できた方が安心だと言う場合と、個人的なつながりが
逆に表現の幅を狭まる場合がある。例えば、自分がそれほど親し
くない人間がいる飲み会を想像して欲しい。まったく親しくない
他人同士の飲み会でもいい。気の置けない仲間と飲む時と、話し
方は自ずと違うはずだ。

MIXIはそれが少し混在しすぎた。整理する手間をかけるよりは、
こちらから退散するほうが、ずっと効率がいい。